喜多勲という人がいた

私のそんなに遠くない血縁に喜多勲という物理学者がいました。東京工大=現・東京科学大かな?=と私学、江戸川大学学長歴任。2022年6月、100歳を超えて他界していることがさっきネット検索して知りました。母の義理の兄(血縁は叔父と姪)にあたる人で、母の生前、私も何度か会いました。私、シンガポール特派員時代、夫人を伴って現地を訪ねてくれたこともありました。晩年画業に打ち込み時折作品コピーを送ってくれました。喜多勲さんの絵画作品と書き込みをコピペして生前を偲んでみたいと思います。とても長くなります

百歳になりました! 喜多 勲

◯ 百歳記念というので絵の話はしばらく置き、 遠い在りし日を想い起こさせて頂きたい。
 私は旧制第八高等学校(※現・名古屋大)を出たが、八高入学は4月、卒業は9月、2年半で追い出された。八高在学中に太平洋戦争が始まり、学年短縮が 実施されたためである。
 大学(※1939年・名古屋帝大)の後半は勤労動員で会社に研究室に通い、当時のマグネトロン※の研究の手伝いをした。(※ 磁電管ともいう)
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 大学の卒業は1945年9月、まさに終戦の直後である。指導教官は嵯峨根亮吉先生、明治
の物理学者・長岡半太郎の息子さんである。
 卒業証書には、「・・、学士試験に合格したり」とか何とか書いてあるが、終戦のドサクサで学士試験など受けていない。それで嵯峨根先生は卒業証書を我々に渡しながら「これは公文書 偽造である」とおっしゃった。しかし偽造学士ながら結構いい仕事をした同級生が多い。  (※ 嵯峨根亮吉博士=理研仁科研究室・原子核研究)

◯ 大学(※東京農工大・教授、学長)の定年間近、油絵を始めることを思いついて、新宿の「朝日カルチャーセンター」に出かけた。
 教わったのは鳥居敏文先生、人物を描く方で、私はそこで長く静物や人物(主に裸婦)を描いていた。ここで田崎とき子さんに出会った。
(※ 田崎とき子さん=喜多氏夫人・太平洋美術会会員)
 田崎さんは長い間、センターのクラスメートだった。センター登録の曜日が違えば田崎さんとは永遠のすれ違いだったはずである。
(※ 鳥居敏文;独立美術協会・日本美術家連盟委員)

◯ 後年田崎さんが、フランスのルサロンやサロンドトーヌに入選した作品がパリで展示されるのを機会にパリを何度も訪れた。
 この頃、3号のスケッチブックでいわゆる淡彩を始めた。これで東京、パリの風景のほか、ヨーロッパアルプス等々・・のスケッチを現場で仕上げて、これをもとに家で油絵を描いた。
 このスケッチをハガキ大のプリントにすると、2~30分程度で仕上げたスケッチの方が油絵より好評のことが多い。
 絵は時間をかければよいというものではないようだ。

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