秦豊さんを偲ぶ
若い記者時代から公私ともにつきあいの深かった1年先輩の秦豊(はた・ゆたか)さんが5日、逝去された。昨日の北海道新聞おくやみ欄を見落とし、通夜も今朝の告別式も行けず仕舞いだった。慙愧に堪えない。
▲秦豊さん(左端)・佳代子(後列右端=故人)さん一家と仲良くしていただいた整理部時代。うちの姐さん(後列右から2人目)の大きなおなかをみれば次男生まれる直前だとわかるから1976年夏か。前列中央、秦家長男琢磨君は、47年後、豊さん葬儀の喪主を勤めた。今は立派なお医者さん
昭和50 (1975)年春、ぼくが初任地稚内支局から、内勤職場の整理部に着任。半年遅れて秦さんも留萌支局から、整理部にやってきた。整理部から社会部に移り、ぼくが整理部から学芸部を経て社会部に移った1983年9月1日、入れ違いに関連会社のUHB北海道文化放送に出向した。なんと2人の異動日当日、サハリン沖上空で大韓航空機がソ連機に撃墜される事件が起きた。テレビ報道未経験の秦デスクが八面六臂の働きで現場を指揮したことは同社では長く語りつがれているはずた。
92年3月、ソウル特派員から道新社会部デスクに戻ったぼくは、秦さんを同僚デスクに迎える。そしてまもなく、ぼくは整理部デスクに移って、秦社会部デスクと丁々発止のやり取り。
思うに、彼は地頭(じあたま)頗るよく、整理部にあっては華麗な紙面を作り外勤記者としても社内外の信頼厚かった。すべて「二流の人」のぼくは内外勤とも、彼には太刀打ちできなかった。残念!
それでも同じ職場にいても、離れても「ハタ坊」「キタちゃん」と呼び合って仲良くしてもらった。整理部時代は野球部を作って一緒に社内大会に出て優勝したり、ゴルフもよく一緒にプレーした。そうそう秦さんは小樽商科大学の将棋部主将だったそうで、社の休憩室で差しているのをよく見かけた。
▲1995年6月の編集局コンペの組み合わせ表が手元にある。「はくちょうスタート1組」に喜多、秦の名前がある。どんなプレーだったか、記憶は全くない。ほかにも懐かしい名前がずらりと並ぶ
出会いは真駒内社宅で、同じ階段を使う1階と3階同士。ともに未就学児が2人いて家族ぐるみのお付き合いだった。このブログを書くにあたり、必死になってそのころの写真をアルバムから見つけ出した。
古く良き整理部兵隊時代。写っているのは信田義朗デスク夫妻、秦夫妻、秦家の長男琢磨君、長女清香(さやか)ちゃん、喜多夫婦と長男宗哉。次男竜平(りょうへい)がどこにいるかは妻のおなかをみればわかるでしょう。清香ちゃんと宗哉は同い歳。1976年撮影なら2人は3歳。ぼくは28歳。秦さん30歳。マイカー2台連ね3家族で洞爺湖に遊びに行った時だろう。
秦さんは北海道新聞本体に戻ったあと、望まれて再びUHBに移り、常務か専務になられたと思う。2013年秋、拙著「アジア群島人、生きる」の出版記念会にも出席していただいた。うちの姐さんとは、1994年ごろ、佳代子夫人のお葬式以来の対面で、「やさしく声をかけてもらった」と、しみじみ言う。その後は年に一度の社友会で会えたが、ここ数年はコロナで社友会が開催されず、リアルで会う機会を失ったことが悔やまれる。
2か月前にいただいた年賀状には、「昨年5月、脳梗塞で一時、車いす生活になったが、いま元気回復中」と昔ながらの達筆で添え書きされていた。せめて電話でお見舞いを言うべきだった、とまたまた悔やまれてならない。享年77。合掌。
◆お断り 手元に秦さんの履歴書がないので、年代表記が誤っているかもしれません。
▲秦豊さん(左端)・佳代子(後列右端=故人)さん一家と仲良くしていただいた整理部時代。うちの姐さん(後列右から2人目)の大きなおなかをみれば次男生まれる直前だとわかるから1976年夏か。前列中央、秦家長男琢磨君は、47年後、豊さん葬儀の喪主を勤めた。今は立派なお医者さん
昭和50 (1975)年春、ぼくが初任地稚内支局から、内勤職場の整理部に着任。半年遅れて秦さんも留萌支局から、整理部にやってきた。整理部から社会部に移り、ぼくが整理部から学芸部を経て社会部に移った1983年9月1日、入れ違いに関連会社のUHB北海道文化放送に出向した。なんと2人の異動日当日、サハリン沖上空で大韓航空機がソ連機に撃墜される事件が起きた。テレビ報道未経験の秦デスクが八面六臂の働きで現場を指揮したことは同社では長く語りつがれているはずた。
92年3月、ソウル特派員から道新社会部デスクに戻ったぼくは、秦さんを同僚デスクに迎える。そしてまもなく、ぼくは整理部デスクに移って、秦社会部デスクと丁々発止のやり取り。
思うに、彼は地頭(じあたま)頗るよく、整理部にあっては華麗な紙面を作り外勤記者としても社内外の信頼厚かった。すべて「二流の人」のぼくは内外勤とも、彼には太刀打ちできなかった。残念!
それでも同じ職場にいても、離れても「ハタ坊」「キタちゃん」と呼び合って仲良くしてもらった。整理部時代は野球部を作って一緒に社内大会に出て優勝したり、ゴルフもよく一緒にプレーした。そうそう秦さんは小樽商科大学の将棋部主将だったそうで、社の休憩室で差しているのをよく見かけた。
▲1995年6月の編集局コンペの組み合わせ表が手元にある。「はくちょうスタート1組」に喜多、秦の名前がある。どんなプレーだったか、記憶は全くない。ほかにも懐かしい名前がずらりと並ぶ
出会いは真駒内社宅で、同じ階段を使う1階と3階同士。ともに未就学児が2人いて家族ぐるみのお付き合いだった。このブログを書くにあたり、必死になってそのころの写真をアルバムから見つけ出した。
古く良き整理部兵隊時代。写っているのは信田義朗デスク夫妻、秦夫妻、秦家の長男琢磨君、長女清香(さやか)ちゃん、喜多夫婦と長男宗哉。次男竜平(りょうへい)がどこにいるかは妻のおなかをみればわかるでしょう。清香ちゃんと宗哉は同い歳。1976年撮影なら2人は3歳。ぼくは28歳。秦さん30歳。マイカー2台連ね3家族で洞爺湖に遊びに行った時だろう。
秦さんは北海道新聞本体に戻ったあと、望まれて再びUHBに移り、常務か専務になられたと思う。2013年秋、拙著「アジア群島人、生きる」の出版記念会にも出席していただいた。うちの姐さんとは、1994年ごろ、佳代子夫人のお葬式以来の対面で、「やさしく声をかけてもらった」と、しみじみ言う。その後は年に一度の社友会で会えたが、ここ数年はコロナで社友会が開催されず、リアルで会う機会を失ったことが悔やまれる。
2か月前にいただいた年賀状には、「昨年5月、脳梗塞で一時、車いす生活になったが、いま元気回復中」と昔ながらの達筆で添え書きされていた。せめて電話でお見舞いを言うべきだった、とまたまた悔やまれてならない。享年77。合掌。
◆お断り 手元に秦さんの履歴書がないので、年代表記が誤っているかもしれません。
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