稚内時代。恩師と2人の畏友について

2月13日、尊敬する稚内支局の一期先輩、本間至能富氏と、同じくらい尊敬する一期後輩の髙橋雅博氏と大通の小料理屋で3年ぶりの懇親会を開いた。3人とも1948年生まれ。元気で何より。

ひととき、一気に半世紀前に滑り落ちる思いだった。当時の小田島支局長とは1972年4月から75年5月まで丸3年、2人の大型若手記者とは前後半1年半ずつ、目眩く稚内生活は、のちの自分作りになんと大きな影響を受けたことか。
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席上、2冊の本を持ち込んだ。1冊は稚内の詩人で流行歌などの作詞者として知られる吉田弘さんの詩集「先輩知人後輩友人」(1975年4月刊)。吉田さんと交遊のある102人を取り上げ人物像を謳いあげている。その中に我らが支局長小田島和善の項がある。

 風格    小田島和善
この人の語りには
実績があり 自信があり
キャリアそのものがある
記者生活の
あゆみがある

へつらいのないのが
当たり前であっても
とにもかくにも
胸をそらしたりしない

だからその笑顔が すばらしいといえる

ボクはこの人に真っ赤に燃えつづける火を感じ
男の炎を 感じてしまう

やさしいあまさのある飲みっぷり
これがまた、 いいンです

さて、こう書いても
この人は
笑って受け止めてくれるでしょう大人の風格があるからーーー

 ほぼ等身大の小田島さんが描かれれている、と今読んでも感心する。

 もう1冊は本間至能富さんが執筆した連載記事をまとめた「ヒグマ社会」(1976年刊)。ぼくより1年先輩の本間さんは記者になって稚内支局を2年半で繰り上げ”卒業”’(ぼくは標準の3年)。室蘭支社報道部に異動してわずか3年たらずでものした出版物。いかに「栴檀は双葉より芳し」かったかがわかるだろう。
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 本間さんははしがきを「改めてヒグマと人間の平和共存を願わずにはいられない」と結んでいる。いま、北海道では、ヒグマと人間との共生問題が大きくクローズアップされていることを考えると、その先見性にも記者として非凡さがうかがえよう。
 稚内時代、「たったの1年の入社の差がこんなにも大きいものか」と驚嘆し、見習えるところは見習おうと努めたはずだ。その後、職場は異なっても絶えず本間氏と、このあと書く髙橋雅博氏の動静は常に気になった。

では3人目の髙橋氏の思い出を。
 本間さんと交代に1973年秋、新人記者として稚内にやってきたが、その新人らしからぬ「大ものぶり」に驚かせた。ぼくは、取材も下手で筆も遅い。毎日8時ごろまでかかって3本ほどの原稿をやっと書き上げるのに、新人君は夕方にはさっさと書き上げて人脈整備活動に出かけるスタンバイオッケーの状態。おまけにひと付き合いにもたけている。取材先に髙橋ファンを次々と獲得していた。

 ぼくは「髙橋君に負けたくない」と遅筆改善に努めた記憶がある。
あれから半世紀。小田島支局長は定年退職後、病に倒れられ、逝去された。お2人の支局戦友とは退社後も連絡を取り合っている。ぼくの記者の原点は、当然稚内であり、最初の職場で3人から受けた恩恵は計り知れない。

 ちなみに、ぼくら入社年次の違う3人は、それぞれの経緯、経路の違いはあるが、生年はそろって1948年。ことし後期高齢者の仲間入りする。

なお、小田島和善さんについては2016年3月にもブログを書いた。以下にリンクを貼っておきます。お時間ありましたら、クリックして読んでいただければうれしいです。
https://makanangin2.seesaa.net/article/201603article_7.html



















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