鈴虫の一生が教えてくれたこと

8月25日から我が家で飼っていた雌雄4匹ずつの鈴虫のうち、最後のオス、鈴四郎が昨日死んだ。残るはメス2匹になった。とりわけ鈴四郎の最後の日々を観察していると、人間のオスの一生の縮図のようでもある。つくづく「見習わなあかんなあ」と思うことがあった。

The last day, 20th October of 鈴虫鈴四郎。
06:08 最後の完全演奏
午前中 驚くほど素早く鈴虫ハウス内を散策。時折立ち止まってか細い演奏。最後は片方の羽根だけ立てて演奏の意志をうかがわせる
13:59 水飲み場に運んでやり末期の水飲ませてやる(写真1)
14:05 絶命したかと触角に触れると微かに反応する(写真2)
15:02 触角触れるも無反応。命終を確認。左右3対の脚のうち、最後列右側の一番長い脚は死の1週間ほど前、もげて失ってしまったが、支障なく残りの5本で元気に動き回っていたなあ。
15:03 キッチンペーパーに遺体安置(写真3)
18:00 感謝と冥福の祈り
18:30 マンション中庭植え込みに埋葬
311006463_6097372520292703_783622501104675638_n.jpg写真1
311912638_6097337403629548_6217253224645148470_n.jpg写真2▲写真3
311013647_6097372716959350_8380846562784163011_n.jpg▲写真3


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▲鈴四郎の死で、ハウスに残るはメス2匹。変わらず泰然ときゅうり、なすびに食らいつく。腹に抱いた卵を、敷き詰めた鈴虫マットに産み付けて一生を終えるはずだ。



我が家にきて約2か月間、とりわけ、成虫になって、りんりんりーんの鳴くオス4匹の生きよう(様)を注視していた。午前中はさすがに静かにしているが、それ以外は夕といわず、夜中といわず、その合奏の音の高いこと。一匹が泣き始めると、ちょっと遅れてほかの三匹もアンサンブルに加わる。

 はじめはぼくの勉強部屋兼寝室に鈴虫ハウスを同居させていたが、夜中あまりにやかましく、夢にまで出てくる始末。やむなく、隣の書庫代わりにしている、ぼくの部屋と同面積の部屋にハウスを移動させた。

オスが羽根を立てて演奏するのは、メスに対する求愛行動だという。しかし、こうのべつ幕なしにナンパされたのではメスたちの感激は薄まる一方ではないか。

はじめは求愛行動のつもりが、習い性になって、オスたちも自分がなぜ演奏しているのかわからなくなっているのではないか。

秋が深まり、オス3匹、メス2匹が相次ぎ死に、最後のオス鈴四郎だけがソロを奏でるようになっても、メス2匹はあまり動きもせず、ウニ折りを利用した留まり木のへの字屋根の外か内にじっとへばりついているだけ。

この数日間、鈴四郎を集中的に観察していると、表皮は見るからに色つやが悪くなり、鈴の音も弱弱しくなってきた。それでもせわしなく地べたをはい回り、立ち止まっては両の羽根を立ててこすってリンリンリ~ンと演奏に余念がない。体の大きさも、メスのほうが断然大きく、表ホモつやつや。あんまり動かないから基礎代謝量がオスよりずっと少ないのだろう。おなかはパンパン。多分、抱卵しているのだろう。

ここまで書いたら、なにやら、人間のオスメスと酷似していることに、賢明な読者諸氏でなくてもく気づいてもらえるだろう。

いや、そうなのだ。

鈴四郎を見ていると、人間の男どもとまことにもってオーバーラップするのだ。いつもメスたちにきょろきょろ」とよそ見し、羽根を打ち鳴らす(若いころは)。年を取ると、もう両の羽根をこすり合わす元気がないが、どうにか、片方の羽根を弱弱しく持ち上げるだけ。

あんまり、無駄な動きばかりして命をすり減らすから、寿命はメスよりはるかに短い。

 短い一生を終えた鈴四郎の穏やかな死に顔(小さくて老眼にはよく見えないが)を覗き込みながら考えた。自分も死の床に伏しては、ぐちぐち繰り言を言わず、鈴四郎のように、淡々と死出の旅路につこう、と。それは大変難しいのがおろかな人間の性(さが)だろうけれど。


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