五十嵐広三さんゆかりの大雪みやげ
過日、道北、層雲峡にちょっと早い紅葉鑑賞に出かけたとき、休憩先のホテル売店で、尊敬する政治家、五十嵐広三さんゆかりの和菓子に出会った。一も二もなく、自分へのお土産にひと折購った。帰宅後さっそく、薄皮でたっぷりのあんこを包んだおいしいお饅頭を家人といただいた。五十嵐さんの笑顔を思い浮かべながら。

ぼくは旅先で食べ物のお土産を買う時、これはと狙い定めると、必ず包装のウラを見る。なるべくその土地で製造された品を選びたいから。
おもては「大雪山国立公園 よもぎ折餅」と書かれ,、古風だが品の良いデザイン。ズシリと重く、あんこがたっぷり入っていそうで気に入った。そしてパッケージを裏返してみると「ほくみん」というひらがなが目に飛び込んだ。「あっ、五十嵐さんの会社だ」

村山富市内閣の官房長官を務めた五十嵐広三さん(1926〜2013)。1963年、37歳で日本社会党から旭川市長選挙に立候補して当選する前は、旭川市を根拠に、アイヌ民芸に理解の深い実業家として、民芸品販売会社「ほっかい民芸舎」(のちのほくみん)を経営されていた。
ぼくが新聞社の旭川支社に勤務した2000年代初頭にはすでに政界を引退して、旭川に戻って静かな老後を楽しんでいらっしゃるようにも見えた。お会いしてお話を伺うとき時、連絡先になっていたのが、「ほくみん」だった。
ぼくにとって「ほくみん」の4文字には、いまも五十嵐さんの思い出につながるひびきがある。
新聞記者として、五十嵐さんに最接近したのは1989年4月。五十嵐広三衆院議員を団長とする、サハリン訪問団に同行、サハリン残留韓国人の実情を取材した。当時、韓国とソ連(現ロシア)間には国交がなく、日本側が、身元を保証するかたちで韓国側離散家族3人を伴ってサハリン入り、何十年ぶりかの親子対面を実現した旅だった。
五十嵐さんは長年の家族別離を招いた責任重大な日本の立場を代表して、ユジノサハリンスクなど各地の残留韓国人を訪ね、誠実に謝罪し、残留民の故国訪問や、家族離散からの原状回復などを支援することを約束した。

上の写真は、韓国大邱市から参加した離散家族、李斗勲さんをエスコートして、すでに死去していた李さんの父の墓前に立った時のもの。李さんの傍らで、終始沈痛に満ちた表情を浮かべる五十嵐(写真左)さんだった=喜多撮影。

ぼくは旅先で食べ物のお土産を買う時、これはと狙い定めると、必ず包装のウラを見る。なるべくその土地で製造された品を選びたいから。
おもては「大雪山国立公園 よもぎ折餅」と書かれ,、古風だが品の良いデザイン。ズシリと重く、あんこがたっぷり入っていそうで気に入った。そしてパッケージを裏返してみると「ほくみん」というひらがなが目に飛び込んだ。「あっ、五十嵐さんの会社だ」

村山富市内閣の官房長官を務めた五十嵐広三さん(1926〜2013)。1963年、37歳で日本社会党から旭川市長選挙に立候補して当選する前は、旭川市を根拠に、アイヌ民芸に理解の深い実業家として、民芸品販売会社「ほっかい民芸舎」(のちのほくみん)を経営されていた。
ぼくが新聞社の旭川支社に勤務した2000年代初頭にはすでに政界を引退して、旭川に戻って静かな老後を楽しんでいらっしゃるようにも見えた。お会いしてお話を伺うとき時、連絡先になっていたのが、「ほくみん」だった。
ぼくにとって「ほくみん」の4文字には、いまも五十嵐さんの思い出につながるひびきがある。
新聞記者として、五十嵐さんに最接近したのは1989年4月。五十嵐広三衆院議員を団長とする、サハリン訪問団に同行、サハリン残留韓国人の実情を取材した。当時、韓国とソ連(現ロシア)間には国交がなく、日本側が、身元を保証するかたちで韓国側離散家族3人を伴ってサハリン入り、何十年ぶりかの親子対面を実現した旅だった。
五十嵐さんは長年の家族別離を招いた責任重大な日本の立場を代表して、ユジノサハリンスクなど各地の残留韓国人を訪ね、誠実に謝罪し、残留民の故国訪問や、家族離散からの原状回復などを支援することを約束した。
上の写真は、韓国大邱市から参加した離散家族、李斗勲さんをエスコートして、すでに死去していた李さんの父の墓前に立った時のもの。李さんの傍らで、終始沈痛に満ちた表情を浮かべる五十嵐(写真左)さんだった=喜多撮影。
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