藤根凱風遺作展ー先生の思い出
一昨日、札幌・大丸セントラルで開かれていた藤根凱風展を見た。2017年2月、84歳で逝去。少字数作品に、古典や甲骨文の臨書を交えた計20数点。いずれも静謐で上品、紙の白地に厳しく働きかける、生前の書風をよく表す作品群が選ばれていた。

▲遺作展より「清虚」
▲同「雲龍風虎」
▲同臨書「黄庭経」
藤根凱風先生は、人生の晩年、58歳で漢字書道を始めたぼくにとっては師と仰ぐ書家のおひとり。道新文化センターで熊川景子先生(北海道書道展=道展=審査会員)に直接手ほどきを受けた際、手本となる書道月刊誌で毎号、古典臨書のお手本作品を書いておられたのが、凱風先生だった。
お手本は初学者向けに、敢てクセなく、基本に忠実に書かれ、それでいて凛とした気品に溢れていることは、半紙4文字からようやく、2行16文字の半切レベルに進んだばかりのぼくにもよく理解できた。
北海道新聞が後押しする道展の重鎮でもあったので、酒席でのお付き合いもあった。人柄は、書風のとおり、素朴でざっくばらんでしかも周囲への気配りも繊細だった。
道展創立50年を記念して2009年10月、シンガポールへの旅を企画した時、凱風先生は夫人を伴って参加してくださった。下のぼくとのツーショットは出発前の新千歳空港でどなたかが撮ってくださったものだろう。旅の途中でも常に機嫌よく仲間の書家と談笑しているお姿が思い出される。


無二の親友は同じ書家の中野層翠先生。中野先生若年期、凱風先生のお父上、藤根星洲の内弟子としてお宅に寄宿されていたと聞いた。つまり二人は兄弟のような間柄なのだろう。喜多、道新退社後、酒好き3人で呑みましょう、と言いつつ実現しなかったのが残念でならない。層翠先生もお寂しいことだろう。
ここまで書いて、ふと思い出した。シンガポールに行ったとき、参加者全員で撮った記念写真があったはず。探しまくったら全員写真は見つからなかった代わりに、凱風、層翠先生と僕が写っている写真が見つかった。これは凱風先生が、教えてくださったのかもしれない。左端の若い女性はどなただろう。
末尾ながら、遺作展のパンフレットを借りて書家 藤根凱風の足跡をしるしておきます。



藤根凱風先生は、人生の晩年、58歳で漢字書道を始めたぼくにとっては師と仰ぐ書家のおひとり。道新文化センターで熊川景子先生(北海道書道展=道展=審査会員)に直接手ほどきを受けた際、手本となる書道月刊誌で毎号、古典臨書のお手本作品を書いておられたのが、凱風先生だった。
お手本は初学者向けに、敢てクセなく、基本に忠実に書かれ、それでいて凛とした気品に溢れていることは、半紙4文字からようやく、2行16文字の半切レベルに進んだばかりのぼくにもよく理解できた。
北海道新聞が後押しする道展の重鎮でもあったので、酒席でのお付き合いもあった。人柄は、書風のとおり、素朴でざっくばらんでしかも周囲への気配りも繊細だった。
道展創立50年を記念して2009年10月、シンガポールへの旅を企画した時、凱風先生は夫人を伴って参加してくださった。下のぼくとのツーショットは出発前の新千歳空港でどなたかが撮ってくださったものだろう。旅の途中でも常に機嫌よく仲間の書家と談笑しているお姿が思い出される。
無二の親友は同じ書家の中野層翠先生。中野先生若年期、凱風先生のお父上、藤根星洲の内弟子としてお宅に寄宿されていたと聞いた。つまり二人は兄弟のような間柄なのだろう。喜多、道新退社後、酒好き3人で呑みましょう、と言いつつ実現しなかったのが残念でならない。層翠先生もお寂しいことだろう。
ここまで書いて、ふと思い出した。シンガポールに行ったとき、参加者全員で撮った記念写真があったはず。探しまくったら全員写真は見つからなかった代わりに、凱風、層翠先生と僕が写っている写真が見つかった。これは凱風先生が、教えてくださったのかもしれない。左端の若い女性はどなただろう。
末尾ながら、遺作展のパンフレットを借りて書家 藤根凱風の足跡をしるしておきます。
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