国民を分断した男に国葬はない

 昨夕、通称・札幌ススキノロータリーで行われた安倍国葬反対集会に参加した。終日しとしとと降り続いた雨の中、集まった市民120人(主催者発表)は、独断で国葬を決めた岸田内閣に怒りの声をあげた。10人ほどが名乗りを上げて次々とマイクを握り短いスピーチを行った。ぼくは、まったく予定はしていなかったが、スピーチを聴いているうちに、やはり思っていることは言わねば、と決心、主催者団体の人に、「ぼくもしゃべっていいですか」と、お願いした。

IMG_1714.jpg降りしきる雨の中で開かれた安倍国葬に反対するスタンディングアピール。10人ほどがマイクを握って、それぞれの思いを訴えた=8月31日午後6時25分、ススキノロータリーのニッカ広告の下

終わりから2人目にマイクを持たせてもらった。

「ぼくは、ふたつの観点から安倍晋三さんの国葬に強く反対します」と切り出した。これまでこのブログやFacebookで書いたり、うちの姐さん(妻)に言ってることだ。

 一つは、「国葬」などというものは天皇主権の明治憲法下にあったもので、現行日本国憲法、法令に国葬の取り決めはない。国民主権の民主国家に国葬は必要ない。これはだれもが言っていることだ。

 もう一つ。安倍晋三という人はとりわけ第2次政権の約8年で、日本国民の心をズタズタに分断した。そのエビデンスとして、ヘイトスピーチの嵐が吹きまくった。1990年代に従軍慰安婦の記事を書いた新聞記者が安倍政権下、いわれなき暴力的迫害を受けた。ふたつの事象を黙認というかたちで助長したのが安倍政権だった。彼は岩盤支持層の右寄りの国民のための政治を続け、逆の立場の批判層を切り捨てた。言い方を変えれば、自民党をふところの深い保守政党から極右政党に貶めたのが安倍政治だといえる。

 政治家は、それまでの思想信条に拘わらず、国のトップリーダーの座に就いたら、国民すべての「首相」にならなければいけない。自己の岩盤支持層のためだけの政治をしてはならない。自民党の歴代の首相はおおむね、それを守ってきた。保守政治家として。

 しかし、安倍氏は突然変異的にその保守政治家の伝統をかなぐり捨てた政治を続けた。国政選挙に連戦連勝だったからくりは、低投票率と、旧統一教会など集票マシーンとの癒着だったことが、このたびの不幸な事件で浮き彫りにされた。

 岸田首相らは、長期安定した政権運営や、経済や外交で大きな功績があったことが国葬に値する、という。それすらも評価は極端に異なる。百歩譲って、功績を認めるとしても、一方で、国民の心を真っ二つに分断したことは、いかなる功績をも価値をゼロにしてしまう。それほど、罪深いことだと、ぼくは思う。
 
 安倍氏の国葬はあり得ない。国会で論議もせず、内閣が独断で実質的に何十億ともいう国費つまり国民の税金を一人の追悼セレモニーに充てるのは断じて認められない。

 
 以上のようなことを考えているぼくだったが、雨の降りしきる集会に長いスピーチは禁物。要点だけ、3分ぐらいにしてしゃべったつもりだが、参加者や道行く市民にどう聞こえたのだろうか。





 

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