63年ぶりに恩師の写真と対面
最近、月イチ以下に落ちたこのブログ投稿。定期的にアクセスしていただく固定読者のみなさんには「なんだ、さぼってるなあ」と落胆させてまことに申し訳ないとは思っています。それでもなにかの拍子に、たまたま過去ログを読んでくれる人もいらっしゃるから、ブログの閉鎖もしたくない。
先日、横浜に住む森岡伸彦さんという8つ年下の男性から手紙をもらった。大阪の河内(現東大阪)市立中央小学校1,2年時の担任だった森岡綾子先生(1920〜2010)の息子さんだった。昨年8月、河内を再訪したおり、子どものころ遊んだ森岡先生ゆかりのお寺を訪ねた。帰札後書いたブログが、ご子息の目に留まり、電話をかけてこられ、数日後にこのお手紙。小5までの河内市(現東大阪市)時代が終わると、ぼくの流転人生が始まった。森岡先生は幸せな河内時代を象徴する人だった。
その後4つの小中校を転校する間も持ち歩いた1,2年次の通信簿の教師所見に「口は達者だが、注意散漫」とあった。森岡先生の卓見ではあった。伸彦さんのお手紙に同封の写真で森岡先生と63年ぶりに対面。太い眉毛のお顔にはっきりと記憶が残る。くだんのブログURLも添えておきます。併せてお読みください。
https://makanangin2.seesaa.net/article/202108article_7.html
先日、横浜に住む森岡伸彦さんという8つ年下の男性から手紙をもらった。大阪の河内(現東大阪)市立中央小学校1,2年時の担任だった森岡綾子先生(1920〜2010)の息子さんだった。昨年8月、河内を再訪したおり、子どものころ遊んだ森岡先生ゆかりのお寺を訪ねた。帰札後書いたブログが、ご子息の目に留まり、電話をかけてこられ、数日後にこのお手紙。小5までの河内市(現東大阪市)時代が終わると、ぼくの流転人生が始まった。森岡先生は幸せな河内時代を象徴する人だった。
その後4つの小中校を転校する間も持ち歩いた1,2年次の通信簿の教師所見に「口は達者だが、注意散漫」とあった。森岡先生の卓見ではあった。伸彦さんのお手紙に同封の写真で森岡先生と63年ぶりに対面。太い眉毛のお顔にはっきりと記憶が残る。くだんのブログURLも添えておきます。併せてお読みください。
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