心のふるさと河内の若江岩田 その四 森岡綾子先生
小学校時代の心のふるさと探訪を終え、若江岩田駅に戻る時、ふと思い出した。中央小学校に入学して最初の担任、森岡綾子先生のこと。つるや電気商会から若江岩田駅に向かって歩き、中間ぐらいの所で左折すると、森岡先生が住むお寺があったはず。目見当つけて左折すると、ドンピシャ。「浄土真宗本願寺派 教岸寺」という石柱が閉じられた門の前に立っていた。表札を見ると「森岡」となっている。
ためらうことなくインターフォンを押した。「昔、中央小学校の先生をしていらっしゃった森岡先生のお宅でしょうか?」と尋ねると、ぼくと同じ年恰好の女性が木戸から出てこられ、境内に招じ入れてくださった。
▲お寺の娘さんだった森岡綾子先生。お寺にはよく遊びに行ったが、教岸寺という名前には記憶はなかった
その女性は森岡綾子先生の姪ごさん。お寺は綾子先生のお父さんの代から、ごきょうだいに移り、この女性は現在の奥様。しかも中央小学校のぼくの2年先輩にあたる。
ぼくは小学校に上がった時のクラスが1年ろ(いろはの「ろ」)組で、2年生までの2年間、綾子先生に持っていただいた。綾子先生は大柄ではっきりとモノをいう人で、ちょっと怖かった。
5年生の1学期で転校。大人になるまで持ち続けた通信簿(いまは散逸)に「頭の回転速く、口も達者だが、注意力散漫」と書かれていた。自分の欠点は小学1年で先生に見抜かれていたと知った、などなど問わず語りにしゃべった。
このお寺にはよく遊びに来ました。大きないちょうの木があって、秋は境内いっぱいに黄色い落ち葉が敷き詰められていました、などというと、ご婦人は「そうそう、ぎんなんのにおいが臭かったですね」。「いちょうの木はもうないのですか」「切り倒したあとはこうなっています」と、ぼくの目の前の小さな緑の葉が密集する地べたの方を指さす。ひこばえというやつか。
▲1954年、ぼくが小学1年のころすでに高木だった銀杏の木。今は切り倒されてひこばえの若葉(写真のぼくの肩の隣)
森岡先生は既に他界されている由。記念に姪御さんと自撮りツーショットをと所望したが、断られたので、手をのばして独りで自撮り。よき思い出になりました。
ためらうことなくインターフォンを押した。「昔、中央小学校の先生をしていらっしゃった森岡先生のお宅でしょうか?」と尋ねると、ぼくと同じ年恰好の女性が木戸から出てこられ、境内に招じ入れてくださった。

その女性は森岡綾子先生の姪ごさん。お寺は綾子先生のお父さんの代から、ごきょうだいに移り、この女性は現在の奥様。しかも中央小学校のぼくの2年先輩にあたる。
ぼくは小学校に上がった時のクラスが1年ろ(いろはの「ろ」)組で、2年生までの2年間、綾子先生に持っていただいた。綾子先生は大柄ではっきりとモノをいう人で、ちょっと怖かった。
5年生の1学期で転校。大人になるまで持ち続けた通信簿(いまは散逸)に「頭の回転速く、口も達者だが、注意力散漫」と書かれていた。自分の欠点は小学1年で先生に見抜かれていたと知った、などなど問わず語りにしゃべった。
このお寺にはよく遊びに来ました。大きないちょうの木があって、秋は境内いっぱいに黄色い落ち葉が敷き詰められていました、などというと、ご婦人は「そうそう、ぎんなんのにおいが臭かったですね」。「いちょうの木はもうないのですか」「切り倒したあとはこうなっています」と、ぼくの目の前の小さな緑の葉が密集する地べたの方を指さす。ひこばえというやつか。

森岡先生は既に他界されている由。記念に姪御さんと自撮りツーショットをと所望したが、断られたので、手をのばして独りで自撮り。よき思い出になりました。
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