恩師の慈愛は有難きかな

 昨夕、非常勤講師を務める大学から帰宅すると、高校時代の恩師小川修一先生(大阪府箕面市在住)からのお葉書が届いていた。先週土曜日、大阪でお会いしたばかり。その折のことについてこちらからお便りを出そうと思いつつ、先を越されてしまった。


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小川修一先生(中央)を囲む池高野球部の教え子たち
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大阪府立池田高等学校野球部70周年記念誌。「小結の心意気」のサブタイトルはキタの拙い揮毫による。気魄あふれる大相撲の小結になぞらえて、大阪高校球界の横綱=私学の強豪を指すらしい=にぶつかれ、という後輩世代の部訓らしい




 以下、私信を無断で転載させていただきます。


 謹啓 遠路はるばる御苦労さまでした。母校への思いが結集された楽しいひとときでした。M会長(喜多注・大阪池田高校野球部OB会長)を支えてくれて有難う。五階百貨店見つかってよかったですね。大阪近郊もすっかり変わりました。
 ブログ拝見できてなによりです。どんどん書いてください。楽しみにしています。(中略)再会を願っています。

 小川先生は今からちょうど半世紀前、1966年夏、キタが高校球児最後のシーズンを送っていた時の野球部監督。池田高校7期、つまり19期キタのひと回り上の野球部のエース投手、大先輩でもある。長い教壇生活のあと、大阪随一の名門校の一つ、天王寺高校校長。さらに教育現場から、教育委員会などの教育行政部門に転じて活躍されたと聞く。

 キタ2年生の時、大学新卒で国語科教諭として母校に着任、野球部監督も引き受けられた。教科も、野球も後輩たちの全人教育の一環と考えられたのだろう、今から思うと、グラウンドではとりわけ非常に厳しい指導者だった。アマチュア・スポーツマンとしてマナーの悪いことをして何度も叱られた。当時は恐れおののくこともあったが、その後の人生の規範の大きな部分は小川先生から授かったものだと、あとになればなるほど気づかされた。

 高校最後のシーズン、夏の大会(全国高等学校野球選手権)大阪府予選一回戦で六回コールド負けを喫する無残さに卒業後10年近く野球から遠ざかったのと、大学卒業と同時に北海道に渡ったために、小川先生の謦咳に接したのは在学中の3年間だけだったが、本当の教育とは後になればなるほど効く薬のようなものだと、つくづく思う。

 先週土曜日、大阪梅田のホテル阪急インターナショナルで開かれた池田高校野球部創部70周年の集いに、札幌かから出席。昨年4月の池高同窓会関東支部総会以来、1年半ぶりに先生にお会いした。

  相変わらず若々しさで、写真に納まると、キタら教え子と変わらない。これは写真を見たわが家人の正直な証言。 集いでは、指名を受けてスピーチに立ち、野球部現役時代や監督時代の思い出をユーモアを交え語っていらっしゃった。

 小川先生、どうかいつまでもお元気で。

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