古き良き大阪の面影訪ねて

一昨日から一泊、所用で故郷大阪に行ったついでに、子供のころ、胸わくわくしたなにわスポットを訪ねた。その姿と思い出を書いてみる。

その一 五階百貨店。


 ここについては2009年1月29日、ブログに書いた。要点だけコピペする。

 難波高島屋デパートから南海電車のガードに沿って東に少し行くと、電気製品、大工道具から台所用品まで中古品を山のように積み上げた一角がありました。昭和30年(1955年)ごろ大阪府河内市(現東大阪市)で電気屋を始めた父が、必要なものがあるとよくここに来て工具や什器備品を物色するのに付いていったのが、五階百貨店に出入りをするきっかけでした。その後、小学校高学年になり両親が離婚し、母親に育てられたのでしたが、やはり、なにか必要なものがあると、この五階百貨店に行って調達しました。豊中1中1年のとき、野球部に入るためまず、新聞配達をして金をため、中古のグラブとスパイクを買いました。いや、新聞配達をするためにまず自転車を買ったんだっけ。

 きょう、南海なんば駅から線路にそって新今宮の方に歩く。もう五階百貨店の位置がわからない。途中で古い喫茶店の店先で植木鉢を出していたキタと同じくらいの男性に聞いてみた。
  「あのう、このへんにあった五階百貨店、もうなくなりましたか?」
  「二つ目の信号左に曲がったら今もあるけど、だいぶちいそ(小さく)なったで」。縮小されたということか。
  言われたとおり行ってみると、あったあった。看板だけは昔のままや。
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小雨のなか、南海なんば駅から歩いて五階百貨店探し。思ったより遠かった

 写真見るとせいぜい三階建て。なんで五階百貨店?
 五階百貨店の名の由来は、明治20年代、5階建の「眺望閣」というパノラマタワーがあってその下に平屋建ての小商いの商店街が発達。何でもそろうと吹聴して「5階の下の百貨店」つづめて五階百貨店になったらしい。

 その二 日本橋二丁目の松坂屋百貨店

 小学五年の一学期まで、近鉄奈良線の若江岩田駅最寄りに住んでいたころ、親にデパートに連れて行ってもらうのが楽しみだった。 

 上六の近鉄、心斎橋の大丸とそごう、なんば(難波)の高島屋。キタ(北)の阪神、阪急はテリトリー外でめったに行かなかった。

 もう一つあった、上六となんばの中間、日本橋2丁目にあった松坂屋。ここの屋上に観覧車があり、好きだった。松坂屋は後年、天満橋に移転、外壁が西洋建築みたいに立派だった建物は高島屋が買収、東別館とした。
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高島屋東別館と名を変えた松坂屋。屋上の観覧車を思い出す

 五階百貨店から歩いて戎橋に行こうと堺筋を歩いていたら、昔のまんまの松坂屋に出くわした。子供の頃に戻ったような気がして胸が高鳴った。もうデパートとしては営業しておらず、1階はブライダル関連になっていた。北の角に、サイフォン式でコーヒーを入れると看板に書いた喫茶店「三番館」があった。歩き疲れていたので、入った。朝、ホテルで無料のコーヒーを2杯飲んできたので、紅茶とハムトーストの「モーニング」を注文。これで480円は安いし、ハムトーストも大変おいしかった。

 ちなみに大阪の日本橋はお江戸にほんばしではなく、ニッポンバシと読む。キタが大阪外語大生のころまであった市電のちんちんj電車が千日前通りを上六から日本橋1丁目を通ってなんば新地の方に走っていた。市電の車掌さんは鎌田特許のあたりの日本一丁目電停でと声高らかに「ニッポンイチ、ニッポンイチ」と停留所名を乗客に告げていたのを憶えている。

その三 アイスキャンデーの「北極」
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 けさ、9時半ごろ、南海なんば駅に向かって戎橋筋商店街を歩いているとき、まだ開店前の看板を見て、また懐かしさがこみ上げた。アイスキャンデーの「北極」。小学生低学年の頃、浜寺の祖父母宅に長逗留していると、よく祖父がここのアイスを買ってきてくれた。今で言えば牛乳1リットル紙パックのような容器にミカンや小豆の入ったキャンデーがぎっしり。保冷用のドライアイスが白煙を吐いていたのを思い出す。開店前のシャッターに創業昭和20年とある。ちゃんとぼくの記憶と計算が合う。

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