大阪外大花園寮の思い出
在学中、とりわけ3回生以降はほとんど授業に出なかったわたくしめが、いま大阪外国語大同窓会「咲耶会」北海道支部長を仰せつかっている。そのため、卒業後ほぼ半世紀ぶりに、大阪で開かれる同窓会総会に来週土曜、出席する。そんな折、在学中、1年間ほど暮らした花園寮時代のことを思い出している。
▲花園寮の中庭には立派な芝生が張られていた
1967年、府立池田高校を卒業して大阪外語大モンゴル語学科に入学。何か月間は東住吉区(訂正→住吉区)長居にあった母の妹(つまり叔母)の経営するアパートにいたが、一人暮らしが寂しかったのか、近鉄花園ラグビー場に隣接する学寮に移った。
居室は1室4人。一応洋間だが、ドアの左右にたたみ2畳を敷いて50センチほど嵩上げした空間があり、それぞれに2人が寝起きする。
僕がいたのは確か204号室。隣の畳はインド語の吉田さんという1年上級生だったことは憶えているが、真ん中の通路を隔てた2畳空間にだれが寝ていたか忘れてしまった。窓際に4つの机が田の字型に置かれ、4人がそこで勉強する。
▲204号室の寝床に腰掛けてモンゴル語の辞書を見るわたくし
たしか隣の205号室にモンゴル語学科の1年上級の秋山さんがいて、仲良くしていただいた。空手部。女性によく持てることを常日頃から豪語していて、高校時代から引き続きまじめ一方の野球少年(大学からはラグビー少年)だった私はずいぶん羨ましい思いをした。
年末に秋山さんの故郷岡山県備中高松に連れて行ってもらった。そこが、羽柴秀吉の水攻めで有名な高松であり、高松稲荷の門前町に、秋山家代々が営む茶屋があって、初詣の書きいれ時にしばし居候させてもらった。いまから思えば大めいわくだったが、楽しい年末年始だった。
秋山さんは1970年に卒業し、貿易会社に入社。その年に結婚して阪急沿線の高級住宅街のマンションに新居を構えられた。
▲寮の隣は花園ラグビー場第2グラウンド。ここでは何度か試合をした。向こう側に第1グラウンドのスタンドが見える。第1では1回生の東京外語大戦で1度だけ使わせていただいた。ポジションはフルバック。芝生が絨毯のようにフカフカだった。スタンド下に大きな風呂があり、試合が終わると、敵味方の別なく一緒に入る。まさにノーサイド。負けた東京外語のフィフティーンは下向き加減で、声掛けても乗って来なかったなあ
その年か、翌年かに秋山さんの新居に泊めてもらったことがある。私はまだ就職が決まらず、結局就職留年して72年に北海道に渡ることになる。在学中のことをきちんとお礼も言わず、そのままご縁がきれてしまったのは非礼だった。
花園寮はとても大きな寮で、ラグビー部で一緒だった久米(アラビア語=故人)、穴田(タイ語)ら、たくさんの友人がいた。
ラグビー部の練習は、平日は大学のある上本町8丁目の小さなグラウンド、土曜は大阪城公園のラグビー場だった。練習の帰り、花園駅から商店街を通って寮に帰る時、果物屋で二十世紀ナシを一つずつ買ってかじりながら歩いたことを思い出す。
2年先輩の中国語科生で寮長のようなことをやっていたHがいた。
ある日、オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティー主演の「ドクトル・ジバゴ」を見て、寮に戻り、映画の感動をHに伝えると、「あれは反動的な映画だ」とにべもなかった。いまでもそう思っているのだろうか。
当時、わたしは「北海道にわたったら、大阪時代のことはきれいさっぱり忘れて、新規やり直しだ」という意固地な思いが強く、高校や大学時代の同級生とは30年、40年全く没交渉の時代が続いた。Hは後で民青、つまり共産党の青年組織の活動家だと分かった。 彼らにとってはドクトル・ジバゴは反革命、反動なのだ。
最近は大阪も北海道もない、日本もアジアもない、というような心境になってきたのは不思議といえば不思議。そんなことだから、大学同窓会にも接近しはじめたのかもしれません。
▲花園寮の中庭には立派な芝生が張られていた
1967年、府立池田高校を卒業して大阪外語大モンゴル語学科に入学。何か月間は東住吉区(訂正→住吉区)長居にあった母の妹(つまり叔母)の経営するアパートにいたが、一人暮らしが寂しかったのか、近鉄花園ラグビー場に隣接する学寮に移った。
居室は1室4人。一応洋間だが、ドアの左右にたたみ2畳を敷いて50センチほど嵩上げした空間があり、それぞれに2人が寝起きする。
僕がいたのは確か204号室。隣の畳はインド語の吉田さんという1年上級生だったことは憶えているが、真ん中の通路を隔てた2畳空間にだれが寝ていたか忘れてしまった。窓際に4つの机が田の字型に置かれ、4人がそこで勉強する。
▲204号室の寝床に腰掛けてモンゴル語の辞書を見るわたくし
たしか隣の205号室にモンゴル語学科の1年上級の秋山さんがいて、仲良くしていただいた。空手部。女性によく持てることを常日頃から豪語していて、高校時代から引き続きまじめ一方の野球少年(大学からはラグビー少年)だった私はずいぶん羨ましい思いをした。
年末に秋山さんの故郷岡山県備中高松に連れて行ってもらった。そこが、羽柴秀吉の水攻めで有名な高松であり、高松稲荷の門前町に、秋山家代々が営む茶屋があって、初詣の書きいれ時にしばし居候させてもらった。いまから思えば大めいわくだったが、楽しい年末年始だった。
秋山さんは1970年に卒業し、貿易会社に入社。その年に結婚して阪急沿線の高級住宅街のマンションに新居を構えられた。
▲寮の隣は花園ラグビー場第2グラウンド。ここでは何度か試合をした。向こう側に第1グラウンドのスタンドが見える。第1では1回生の東京外語大戦で1度だけ使わせていただいた。ポジションはフルバック。芝生が絨毯のようにフカフカだった。スタンド下に大きな風呂があり、試合が終わると、敵味方の別なく一緒に入る。まさにノーサイド。負けた東京外語のフィフティーンは下向き加減で、声掛けても乗って来なかったなあ
その年か、翌年かに秋山さんの新居に泊めてもらったことがある。私はまだ就職が決まらず、結局就職留年して72年に北海道に渡ることになる。在学中のことをきちんとお礼も言わず、そのままご縁がきれてしまったのは非礼だった。
花園寮はとても大きな寮で、ラグビー部で一緒だった久米(アラビア語=故人)、穴田(タイ語)ら、たくさんの友人がいた。
ラグビー部の練習は、平日は大学のある上本町8丁目の小さなグラウンド、土曜は大阪城公園のラグビー場だった。練習の帰り、花園駅から商店街を通って寮に帰る時、果物屋で二十世紀ナシを一つずつ買ってかじりながら歩いたことを思い出す。
2年先輩の中国語科生で寮長のようなことをやっていたHがいた。
ある日、オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティー主演の「ドクトル・ジバゴ」を見て、寮に戻り、映画の感動をHに伝えると、「あれは反動的な映画だ」とにべもなかった。いまでもそう思っているのだろうか。
当時、わたしは「北海道にわたったら、大阪時代のことはきれいさっぱり忘れて、新規やり直しだ」という意固地な思いが強く、高校や大学時代の同級生とは30年、40年全く没交渉の時代が続いた。Hは後で民青、つまり共産党の青年組織の活動家だと分かった。 彼らにとってはドクトル・ジバゴは反革命、反動なのだ。
最近は大阪も北海道もない、日本もアジアもない、というような心境になってきたのは不思議といえば不思議。そんなことだから、大学同窓会にも接近しはじめたのかもしれません。
この記事へのコメント
キタさんもモンゴルにいらしたとは知りませんでした。しかしダルハンではあるし、Jica関係の方とは没交渉ですし、だいいちそのころは私は大阪に40年ぶりに帰って一時期住んでいましたしね。住んでいたのは大阪は住吉区長居です。本文中の東住吉区長居というのは記憶違いじゃあないでしょうか。