吉岡忠雄著「ソウル・ラプソディ」を再読

 突出したナションリズムとともに隣国へのむき出しの敵意を詰め込んだ本が次々と出版され、しかもよく売れているという現下の日本の風潮には恐ろしさを感じるし、これでよいのか、と考え込んでいます。そんなおり、わが書棚から1冊の本が語りかけてきた。まあ、「私をもう一度読んでみなさい」と。

 
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 吉岡忠雄著「ソウル・ラプソディ」(草風館、1985年初版)。吉岡は1923年生まれ、元毎日新聞記者。ソウル(1964~66)、ニューデリー(67~68)、モスクワ(68~72)特派員、論説委員。退社後に82年まで山形新聞論説委員を務めたのち、同年3月から12月までソウル延世大学語学堂に留学。

 ソウル特派員時代だけでなく、還暦を前に自ら、語学生として9ヶ月間のソウル生活を体験している。韓国社会、日韓関係に深い理解を持ち続ける人である。


 百の国があれば百の歴史と現実があることに目をつぶって、出来合いの観念で一刀両断にして恥じない風潮が昔も今も絶えない。
 韓国は、今後永久に付き合ってゆかねばならない、いちばん近い外国である。以下の拙文で私がいいたいことは、この隣国と肩肘はらず、そして対等に誠実に交わってゆこうではないかという、まことに平凡な一事である
(前文より)

 この書はソウル留学から帰り、特派員生活以来約20年の韓国とのかかわりを総括したものと言える。日本ジャーナリズムが韓国や日韓関係を取り扱うのに、時としてあまりに辛辣すぎる時期とむやみい持ちあげる時のぶれが大きい。そのことは吉岡も見てきたし、87年の特派員生活から韓国との本格的なお付き合いが始まった(初訪韓は81年だった)キタも感じてきたこと。

 理不尽に誹謗することも、おべっかも、隣国には余計なお世話だと思う。

 個人がそうであるように、民族にも国家にも少年期、青年期があり、それを通過せずして成長はあり得ないことをわきまえていながら、ある国家の現状に対して、戦場の心理さながらに、活字と電波の総力を挙げて非難、攻撃の集中砲火を浴びせることは、何と評したらよいであろうか。
 幾千万の人間が、自らの前に避けようもなく置かれているものに向かって歩んでいるときに寄せるべき言葉は、賛意であれ、批判であれ、その現実を直視し、その痛みを自らの痛みとしたうえで、発せられるべきであろう。満ち足りたおぼっちゃまが満ち足りていることそのものにかんしゃくを起こし、そして召使でもない異国の民に当たり散らすのは、ここらでやめにしたい。
(「歪められた韓国像」202ページ)

 もちろん、以上の吉岡の見た状況と今日の日本の状況には大きな違いがある。現在の日本の経済、社会状況は、高度経済成長時代のわが世の春が終わり、とりわけ、若年層には「満ち足りている」どころか、将来になんら明るい希望を持てない逼塞状態に陥っている。

 その逼塞感が、身の周りから少し離れた位置にあって、しかも「非難」「攻撃」の格好の標的となり得る存在として隣国を選んだ。 ナショナリズムとエキセントリックな反韓、嫌韓ムードを追い風にした書がいまよく売れている背景でもある。

 時代背景に違いはあっても共通するのは「かんしゃくを起こし、そして召使いでもない異国の民に当たり散らしている」ことである。

 不幸なことに、日本側の「活字と電波の総力を挙げての非難、攻撃の集中砲火」には、同じレベルの非難、攻撃が韓国政府、マスコミからも続いていることだ。

 それがいかに危険で非生産的な消耗戦であることか、両国政府は一番よく知っているはずだ。
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 上のグラフは日本の外務省がつくった「未来志向の日韓関係を目指して」という動画のなかにあったものです。
 日韓が国交を回復した1965年当時は日韓の人的往来は1万人。2012年には550万人。日韓両政府がいがみ合おうと、両国内のナショナリストたちがエキセントリックな非難・中傷合戦をしようが、大きな流れのなかでは、良好な草の根交流が続いています。

 両国の良識ある民衆の知恵はそんなにやわではない。かと言って油断もできない。

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