稚劇、名画座、日本劇場…最北の町の映画館の思い出
最北の町稚内に20年ぶりに映画館が復活するというニュースが年明けありました。JR稚内駅の再開発ビルに5月、3スクリーンのシネコン方式でお目見えするそう。キタが彼の地で新聞記者稼業を始めた昭和47年(1972年)当時、人口5万5千の漁業基地の中心街に3つの映画館がありました。その思い出を-。
まず稚内劇場(通称稚劇=ちげき)。市役所に近い国道沿いにあり、旭川以北最大の歓楽街「仲通り」の入口でもありました。
午後10時ごろサツ警戒が終わると、終映まで30分ほど稚劇に立ち寄る。切符売りの窓口はもうしまっておりもぎりの席にナーさんこと中村さんがおり「見ていきませんか」と声をかけてくれる。見に来たのはわかっているのに。これが木戸銭フリーの儀式です。稚内の若い記者仲間にとって深夜の稚劇は束の間の休息の場でした。
ナーさんは当時すでに還暦をすぎていたでしょうか。樺太引揚者らしいと聞いたほかは詳しい出自は知らず、いつも稚内市役所の記者クラブのマージャンコーナーに顔を出してはずるいベテラン記者からかもられていましたが、翌日性懲りもなくにこにこ顔でクラブに出勤してきます。稚劇で見た作品のディテールはまったくおもいだせません。
当時すでに映画の斜陽期でいついっても閑散としていましたが、お盆の特別興行は超満員でした。映画の上映を休んでライブのストリップショーがかかるのです。稚内だけでなく周辺町村の男どもが楽しみにしていたのでしょう。
次に名画座。稚内駅周辺にあったことは確かですが、正確な位置関係は忘れてしまいました。相当老朽化していて、お化け屋敷寸前だったなあ。ここで見た「ペーパームーン」が忘れられません。ライアン・オニール、テイタム・オニール親子の主演。10歳の娘が演技で完全に父親を食っていました。テイタムはこの作品で史上最年少のオスカー受賞者になり、今も記録は破られていません。
お化け屋敷でみたアメリカ大恐慌時代の作品なので旧作かと思ったけど、製作年代を後で調べたら、1974年(昭和49年)。日本封切の年にみていたんですね。「It’s only a paper moon」の曲を聴くとそのころを思い出します。
それから豊田四郎監督の「恍惚の人」(1973年作品)も名画座で見ました。超高齢化時代を40年前に先取りした力作。恍惚老人を演じた森繁久弥が後年、「まじめな豊田監督の厳しい演出でしごかれ、思い出したくない作品」と言っています。高峰秀子が介護する嫁の役でした。
日本劇場。そんな名前の映画館があったということしか思い出せません。名前が違うかも。どなたか教えてください。
まず稚内劇場(通称稚劇=ちげき)。市役所に近い国道沿いにあり、旭川以北最大の歓楽街「仲通り」の入口でもありました。
午後10時ごろサツ警戒が終わると、終映まで30分ほど稚劇に立ち寄る。切符売りの窓口はもうしまっておりもぎりの席にナーさんこと中村さんがおり「見ていきませんか」と声をかけてくれる。見に来たのはわかっているのに。これが木戸銭フリーの儀式です。稚内の若い記者仲間にとって深夜の稚劇は束の間の休息の場でした。
ナーさんは当時すでに還暦をすぎていたでしょうか。樺太引揚者らしいと聞いたほかは詳しい出自は知らず、いつも稚内市役所の記者クラブのマージャンコーナーに顔を出してはずるいベテラン記者からかもられていましたが、翌日性懲りもなくにこにこ顔でクラブに出勤してきます。稚劇で見た作品のディテールはまったくおもいだせません。
当時すでに映画の斜陽期でいついっても閑散としていましたが、お盆の特別興行は超満員でした。映画の上映を休んでライブのストリップショーがかかるのです。稚内だけでなく周辺町村の男どもが楽しみにしていたのでしょう。
次に名画座。稚内駅周辺にあったことは確かですが、正確な位置関係は忘れてしまいました。相当老朽化していて、お化け屋敷寸前だったなあ。ここで見た「ペーパームーン」が忘れられません。ライアン・オニール、テイタム・オニール親子の主演。10歳の娘が演技で完全に父親を食っていました。テイタムはこの作品で史上最年少のオスカー受賞者になり、今も記録は破られていません。
お化け屋敷でみたアメリカ大恐慌時代の作品なので旧作かと思ったけど、製作年代を後で調べたら、1974年(昭和49年)。日本封切の年にみていたんですね。「It’s only a paper moon」の曲を聴くとそのころを思い出します。
それから豊田四郎監督の「恍惚の人」(1973年作品)も名画座で見ました。超高齢化時代を40年前に先取りした力作。恍惚老人を演じた森繁久弥が後年、「まじめな豊田監督の厳しい演出でしごかれ、思い出したくない作品」と言っています。高峰秀子が介護する嫁の役でした。
日本劇場。そんな名前の映画館があったということしか思い出せません。名前が違うかも。どなたか教えてください。
この記事へのコメント
2年ほど前でしょうかヤフーオークションにてこの稚内劇場と稚内・日本劇場の007シリーズのB4判(大判)横型片面単色2色(赤色と藍色)刷り映画チラシ<多分、大判サイズの事から、新聞折り込みようで配布されたと思います。あくまでも、自分の想像ですが>
そのタイトルが007シリーズ大会(「007・ドクターノオと007・ロシアより愛をこめて」の2本立てのカップリングと「女王陛下の007(併映、レマゲン鉄橋」<文字表記のみ掲載>の2本立てと「007死ぬのは奴らだと110番交差点」の2本立てのカップリング映画チラシです。
館名は3種類とも、稚内の洋画専門映画館だった稚内・日本劇場。
但し、「007・死ぬのは奴らだと110番交差点」は日本劇場以外、特別深夜興行の為、稚内劇場の館名も記載されていた。
この映画チラシはどちらかと言うと、館ニュースっぽい部類に無いるが、大変、稀少で、珍しい映画ビラチラシではないかと思う。
其の3種類の映画ビラチラシ共、ヤフー・オークションにて、値段は高額でしたが無事、落札して購入し、今は、自宅の自分の部屋に置いてあるクリア・ファイルブックにて、保管しております。
最後に、先程、送信した文章において、最後の方の文章にて、誤字・脱字がありました事、この場を借りまして、お詫びいたします。
誠に、申し訳御座いませんでした。
引き続き、もう少し稚内・日本劇場についてのお話し致します。
なぜ、稚内・日本劇場の場所が特定できたかと申しますと、話は長くなりますので、出来るだけ短くお話し致します。
一言で言いますと、稚内劇場の館名表記からお分かり頂けると思います。
稚内劇場とは、北海道の稚内市の稚内からとった映画館(劇場)なので、稚内劇場と言う事だと思います。
その稚内劇場の文字から、日本劇場は、稚内市にあった洋画専門館・稚内・日本劇場だという事になります。
又、自分は、このチラシについての劇場名(稚内劇場と稚内・日本劇場)については、北海道立図書館や稚内市立図書館にて、電話をかけ、調査依頼し、当時の新聞の映画館上映案内の記事面のコピーを戴きました。
又、当時の1965年と1978年の映画館名簿と言う本を古書店から購入致しました。
それによりますとに稚内劇場と稚内日本劇場以外、1965年の映画館名簿にはもう2つ映画館が存在しました。
1つは、稚内・宝映劇場ともう1つが稚内・名画座の4館が存在していました。
4つとも、横山興業が経営していました。
洋画は、稚内日本劇場が中心に上映していました。
残りの3館は、邦画や時折、洋画を主に上映していたと思います。
又1978年の映画館名簿の本では、稚内・宝映劇場は廃館となり、稚内劇場と
稚内日本劇場と稚内・名画座の3館のみとなりました。
googleのマップでそれぞれの数字を入れてください。
稚内劇場 45.418196,141.673829
日本劇場 45.416615,141.67645
名画座 45.416225,141.675607
チゲキは本局(郵便局)からノシャップ方面へ一区画のガソリンスタンドの向かいにありました。ニチゲキは駅前ロータリーの寿商店の隣、高林デパートの斜向かい。メイガザは本通り(だったかな、稚内初のアーケード街)の白金堂(レコード店)の通りをはさんで向かい。長谷川スポーツ店のとなりだったような気がします。メイガザの跡地には廃館後10年くらいたって松森商店が文房具屋さんとして入ったように思う。
チゲキは邦画、ニチゲキは洋画、メイガザは普段はエッチな3本立て、夏休み冬休みは子供向けアニメ・怪獣映画でした。宝映劇場は見に行った記憶はありませんが、たぶんここ 45.405494,141.673719 。陸橋の降りたところにつぶれた映画館があった記憶があります。